↑What's New ←目次
0 1 2 3 4 5 6 7 8 通巻 196号

「何ができるか」ばかり議論する・・・

反町 およそ現実的とはいえない解釈がまかり通っていると?
岡崎 しかも外交政策上、それが得策だからそうしているというのではなく、法律に照らして、何ができるか、何ができないかということしか考えないのです。 一例をあげますと、アフリカのルワンダの内戦が激化して、多くの避難民が隣接するコンゴ(当時、ザイール)に逃げました。その避難民が悲惨な状況に置かれたため、1994年に国連が加盟国に緊急援助を要請して、日本も自衛隊を派遣することになりました。そのようなとき、通常どうするかというと、何をするべきかを考えるわけです。必要な食料や医薬品を用意して、それを運ぶ人間の安全を確保する準備をしたうえで、送り込む。ところが日本の場合、
何ができるかということしか考えないのです。ルワンダは小さいな国で、その辺境で戦争をして、避難民が隣接するコンゴ領内に逃げた。コンゴは広大な国ですから、日本の部隊がコンゴの飛行場を利用すると、避難している場所からあまりにも遠くなってしまうので、ルワンダに着陸しなければならない。ところが、日本の部隊は紛争地域に行けないことになっているから、ルワンダの飛行場は使えない。あるいは、行く際の武装としては、機関銃は1丁ならいいが3丁はいけないといった議論になってしまう。酷い目に遭っている難民を助けるには、何をなすべきかという発想がない。そのような事態に直面すると、みんなで頭を突き合わせて、法律の条文を見ながら、

これはできる、これはできないという議論ばかり重ねるのです。
反町 なぜ、そのような隘路に入り込んでいるのでしょうか?
岡崎 やはり法哲学の欠如が原因です。法律は人間社会をなす規則の一部であって、人間や社会が必要とすることを行うことを助ける。それが最大命題です。ところが、日本では、先に憲法の条文で縛っておいて、できる、できないの議論しかしない。それは間違いです。既存の法律の文章ではなく、もっと奥にあること、なぜこの法律があるか? そのところまで考えれば、条文になくても、
カバーしなければならないことがある。日本の場合、そういう発想がゼロなわけです。反町 戦後半世紀にわたって、本当に戦争について議論しなければならない事態に直面せずに済んだことも、その原因のひとつでしょうか? 岡崎 この半世紀、日本は直接、戦争にまきこまれませんでしたし、この先100年間、戦争に関係しないかもしれない。しかし、法律というのは、起こるか、起こらないは別として、あらゆる可能性に備えていなければならないものです。あるケースについて想定していないなら、それは法律の不備ですから、作り直すべきです。
 
→Next

↑What's New ←目次
0 1 2 3 4 5 6 7 8 通巻 196号
Copyright 2000 株式会社東京リーガルマインド
(c)2000 LEC TOKYO LEGALMIND CO.,LTD.