![]() ![]() 「地方分権の推進」ということに誰も異議を唱えない。しかし、与野党のすべて、霞ヶ関の官僚たち、石原東京都知事から北海道の小さな村の村長さんまで誰もが賛成であるということは、中身についてのコンセンサスは何もないことの裏返しでもある。 いまの国の仕組みがうまくいっていないからといって、民間と地方にやらせれば万能薬としての効果 を発揮して、日本が抱える深刻な危機を乗り越えられるというのは無責任な幻想に過ぎない。「廃県置藩」というスローガンを掲げ、江戸時代へのある種の回帰を唱える人もいるが、これは藩と県についての正確な歴史的認識に欠如した言葉の遊びで、世界に遅れをとった江戸時代への情緒的評価など、旧社会主義諸国における共産党時代への郷愁と同列のものだ。 「中央から地方へ」という大きなうねりを引き起こすべきことは結論においては正しいのだが、スローガンの心地よい響きがゆえでなく、世界の流れや日本の経済社会システムについての考察の上に立った提案であるべきだ。また、地方分権の受け手である地方サイドの改革の必要性が見落とされがちであることは、地方分権が単なる国の責任放棄にしかならないと危惧させる。 そうした中で、今回から始めさせていただくこのシリーズは、現在の日本の地方制度がいかなる歴史的な文脈の中にあるのかを考え、これから百年、あるいはそれ以上に長い時代に日本が進むべき道への展望の中で、どのような変貌を遂げて行くべきかを提案してみようというものである。 ![]() ![]() ![]() 地方分権への流れはいまや世界的で、日本における地方分権論もこの世界的な文脈と無縁ではない。その背景には、超国家的な国際秩序が充実して、国家の重要性が低下しているということがある。近代民主主義においては、個人の権利と義務は憲法によって保障され、国民は国を通 じて海外と接触し、地方自治は憲法の認める範囲でのみ与えられてきた。 ところが、近年になって人権などの分野で国連などが主導した条約が次々と結ばれ、経済でもWTOなどの枠組みによるグローバリゼーションが進展した。地域的な連携も強まり、ヨーロッパはEUのもとで連邦国家のごとき様相を示している。そうなると、個人が自らの自由を守るよすがは憲法ではなく、条約や国際世論となり、企業がビジネスを有利に運ぼうとすれば、国ではなく国際機関に働きかけることも必要になっている。 特にEUは、普仏戦争から2回の世界大戦まで3回も戦争をしたフランスとドイツが再び戦わないためには経済統合しかないという発想で始まったものであり、加盟国間の戦争はありそうもない。そうなると、国内で地域間対立がありながらも大国の侵略から身を守るために仕方なくひとつの国になっていたところでは、矛盾が露呈し、チェコスロバキアは解体し、イタリアでは北部同盟が伸長し、スペインのカタロニアの独立性も強化されている。 こうして欧州各国では、国の権限の一部がEUに、残りが地方に移行して国家の空洞化が進んでいる。個人と国家の契約がまずあり、個人は国家の認める範囲で外国や地方政府と関わりを持っていたのが、個人にとって国際社会、国家、地方とのそれぞれの関わりが並列的なものになってきたのである。また、地方政府が外国と直接につき合うことは反逆行為とすら受け取られてきたのだが、最近はごく普通 のことになってきた。大分県の平松守彦知事が言うグローバリゼーションとローカリゼーションを融合した「グローカル」という標語は有名だが、世界史的なコンテキストをうまく言い表している。 もちろん、世界のどこでも地方自治が強化されているわけでない。州の権限が大きかったドイツでは、EUの権限強化の中で州の自由度までもが制限を受けつつある。毛沢東は外国の侵略に備えて地方経済を自立させたが、朱鎔基はマクロ経済政策の効果 を上げるために中央集権化を進めたし、サッチャーは構造改革のために中央集権と衰退地方の切り捨てを両輪とするポリシーミックスを断行した。米国では人権擁護のために連邦司法裁判所の州法に対する介入が強化され、ブッシュ大統領は全国的な教育改革に取り組んでいる。 しかし、やはり大きな流れとしては国家の空洞化というコンテキストの中でグローバリゼーションと地方分権が同時に進まなくてはならないということが現代を理解するキーワードなのである。 ![]() ![]() ![]() いま、平成の市町村大合併が現実化している。道州制についての議論も活発であるが、日本の地方制度のルーツは意外に知られていない。日本が国らしい国になった律令制のもとで、国民は国から直接に農地を分け与えられ、国土は中央政府の威光が行き渡りやすいように60余の「国」に分けられた。ところが、中国に倣ったこのシステムは効果 の割に高コストだったため、平安時代には崩れた。貴族や寺社などがオーナーとなった荘園による企業的地域経営が発達し、治安維持は民間警備業者である武士に委託された。やがて、荘園経営者の力は弱まり武士の支配が強まったが、農民たちは13世紀あたりからムラと呼ばれる集落をつくって自治を行うようになった。安土桃山時代から江戸時代になると荘園は消え、武士に領地として分け与えられたが、ムラの自治は尊重された。江戸時代に日本は約300の藩に分かれ充実した地方自治が行われていたという俗説があるが、事実に反する。全国の石高で4分の1、人口ではそれ以上が天領と呼ばれる幕府の直轄領だったし、大名もほとんどは小大名で、最低の一万石というと現代の町村くらいのサイズだった。領地は割れたビスケットのように各地に散在していたため、庶民は藩など意識せずに「上州は新田郡三日月村の住人紋次郎」などと名乗っていた。水野忠邦が江戸や上方の大都市周辺を天領としてまとめようとしたり、山形藩が領地を交換して山形市周辺にまとめようと努力したが失敗した。たいていの藩政は誉められたものではなく、明治維新は近代国家に近い地域経営に例外的に成功した薩長土肥の成功体験を全国に広めるために実現したものだ。 明治政府は、フランスに倣って全国をほぼ同じサイズの都道府県に分けて効率的に近代化を図ることとし、律令時代の60余国を微修正して現在の47都道府県をつくった。一方、小学校をつくるために約7万のムラが約1万に再編成されて市町村が生まれた。 戦後の日本国憲法のもとでは、新制中学校をつくるために市町村は3,000余にまとめられた。ところが、都道府県については再編成する機を失い、47都道府県がそのまま維持されている。このことは、地方分権国家を実のあるものにするためには致命的な禍根を残している。つまり、47都道府県という数は、地方政府があまり強くなって中央集権的な体制を脅かさないようにするにはほどよい。しかし、これでは中央と対抗できるような強力な地方政府は成立し得ないし、自立的な地方経営を実現するためには範囲が小さすぎる。そこで、戦後の早い時期から道州制、連邦制、合併、地方庁※などさまざまな提案が行われているが実現に至らなかった。地方自治体の再編成については次回以降に論じるが、市町村についての平成の大合併も、本来は都道府県をどうするかということと一体的に論じられるべきものを、安易に単独で進めているので迫力がないのだ。 ![]() |
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地方庁構想 全国をブロックごとに分け、それぞれに国の機関としての「地方庁」を置くという構想。 ![]() |