文部省は現在、教育改革を進めている。学校教育はどのような方向に向かおうとしているのか? 自ら本を著し、テレビに登場するなど教育改革について積極的な発言をしている文部省大臣官房政策課長の寺脇研氏に、文部省の教育改革についてお聞きした。
 
ゆとりの教育の真意
完全学校週5日制への移行にともなって、新しい学習指導要領が実施されようとしています。まず学習指導要領で提唱されている「ゆとりの教育」についてうかがいたいと思います。
『ゆとり』とは、もともと平成8年夏に中央教育審議会が出した答申※1の中で使われた表現です。ちょうど神戸の連続児童殺傷事件が起きた頃ですが、子どもたちの問題点として、心にゆとりが無く、せわしない状態に置かれていることが指摘されました。それが犯罪に結びつくこともあるし、あるいは自殺、登校拒否などさまざまな問題の要因にもなっている。それは、一部の子どもの問題ではないかと言われるかもしれませんが、全体的に見て、子どもたちが何のために学ぶのかを考えるゆとり、将来、自分はどんな人間になりたいのか考えるゆとり、さまざまな趣味をもって心豊かに生きるゆとりが与えられていないとされたわけです。そこで、ゆとりが持てるような学校教育に転換していこうという方向性を打ち出しました。それが本来の『ゆとり』の意味です。
その具体化のため、平成14年度から完全学校週5日制の導入など、さまざまな政策を考えられているわけですね。
学校はどうしてもパーソナルな時間を持ちにくい場ですから、土曜・日曜を休みにして、子どもたちがもっとパーソナルな時間を持てるようにしようということです。また国語、算数、理科、社会といった教科は、教える速度を少しゆっくりにします。また今回、予算要求しましたが、教師の数を増やして、生徒の学ぶ早さに応じた指導ができるようにすることも考えています。
学習指導要領では、一人ひとりの能力、適性に応じた教育ということも挙げられていますね。
今年度から導入されている『総合的な学習の時間』は、各学校が創意工夫して、教える内容を決める授業です。どのような能力、適性の子どもも、すべて一律に同じ教育をするのは、いくら何でもやり過ぎではないかということです。まだ一部ではありますが、学校教育の中に、個々の興味や関心、能力、適性に合わせたパーソナルな部分を作っていこうというのが、ひとつの大きな流れです。
 
「分数ができない大学生」はなぜ生まれたか
あるいは経済の国際的競争力に対する悲観的な意識が影響しているのかもしれませんが、「ゆとりの教育」に対して、教える内容を3割削減することなどに対して、生徒の学力低下をまねくのではないかと、懸念の声もあがっているようですが。 寺脇 『ゆとりの教育』という言葉が一人歩きをして、一部でおかしなとらえられ方をしています。本来は心にゆとりがもてる教育、何のために学ぶのか考えられる教育を考えていこうということです。
 現状としては、たとえば法律家になるにしても、学校教育のどこかの時点で、法律家になることを主体的に決心するより、自分の偏差値が合う大学の法学部に行き、そこで『司法試験でも受けてみるか』ということになる。そのようにして、法曹の世界に進んでいることが多いのではないかということです。
学力低下について、よく引き合いに出されるのが、円周率のことであったり、「分数ができない大学生」ということですが。 寺脇 まず『円周率を3と教える』というのは、まったくのデマです。今までのように、いきなり3.14という数字を示して、『これを覚えなさい、これで計算しなさい』というのではなく、まず整数にすればおよそ3というところから入る。それを詳しくすれば、3.1になる、さらに詳しくすれば3.14になる。そのように、きちんと順序立てて教えようということです。当然、正確には円周率は3.14でさえありませんから、順序立てて教えることによって、さらに細かい数字があることを分からせる。体系づけることで、何のためにこれを学ぶのかを分かるように教えていこうとしているのであって、決して、『円周率は3、以上終り』ということではありません。 『分数ができない大学生』というのはまた別の次元の話です。確かにそういう大学生がいるのかもしれません。その最大の理由は大学に入ってから勉強をしないということです。大学入試までは猛勉強しても、合格した瞬間からやらなくなり、過去に覚えたことを片っ端から忘れていく。その結果 です。某テレビ局の調査によれば、『東大生の3分の1が1/2+1/3という分数計算ができない』ということですが、本当にそうであれば、東大に合格しているはずがありませんから、受験の時点では、その力はある。つまり今の大学生がいかに大学で勉強しないかということです。勉強しない大学生という問題は確かにある。それは文部省としても強く認識しています。では、なぜ勉強しないのか、大学生に聞くと、『志望大学に合格するまでは勉強するインセンティブがあったけれど、大学に入ったらそれがない』というわけです。勉強をしたら、先生が褒めてくれるわけでもない。親に毎日、『勉強したの?』と言われるわけでもない。つまり自分の中に自発的に勉強しようという欲望が起きない限り、大学生は勉強をしないのです。そうなっているのは、自分がなぜその勉強をするのかを考えず、偏差値で漠然と大学を選んでしまうためです。そこで誰からも強制されなければ、勉強しようという気持ちはわいてきません。ですから、『分数のできない大学生』を無くす方法は、高校までにもっと分数を詰め込めばいいということではありません。なぜそれを学ぶのかを知ることで、自発的に学ぶ気持ちを持ってもらうことです。学びたいというモチベーションが形成されない限り、学力低下論者が言うようにするなら、親は『勉強しろ、勉強しろ』と言い続け、先生は『この問題集を解け』と言い続けなければならないことになります。大学でも大学院でも詰め込みをしよう。会社に入ってからも詰め込みをしよう。そんな社会でいいのかということです。
 
文部行政で反省すべき点
ゆとりという方向を出されたのは、画一的、詰め込みという言い方で語られることが多かった、それまでの文部行政に対する反省があるということでしょうか?
では、なぜこれまで画一的な詰め込み教育になっていたか。それは戦後の教育制度がスタートした半世紀前の社会を考えていただければ、お分かりになると思います。その頃の社会は一人ひとりに応じた授業をするゆとりはありませんでした。学校は足りない、教室もろくにない、生徒は1学級60人も70人もいる。そのような状況では、画一的な詰め込みがベターな方法でした。誰もベストだとは思っていなかったわけです。
 実は戦争直後には、今、変えようとしているような方向にしたかったわけです。戦後間もない頃は学校週5日制も導入されていましたし、新制高等学校にしても、今の総合学科高校のように自分で授業を選ぶという試みもありました。小学校でも総合的な学習のような時間を設ける動きもありました。しかし、当時はあまりにも貧しい状態だったため、そのことごとくが行き詰まってしまったのです。つまり戦後教育が最初に目指したのは画一的な詰め込み教育ではなく、むしろ自発的に学ぶモチベーション作りでしたが、当時はとてもそのようなことをする経済的な余裕がなかった。ベストだと思うことが無理な以上、ベターでいくしかないと考えたのです。
 また当時の高校進学率は4割くらいです。大半の子どもは中学校で終えて、社会に出て行くわけです。今の生涯学習のように、いくつになっても何かを学ぼうということは夢にも思わない時代です。中学を卒業して、集団就職列車に乗って都会に出て行ったら、もう勉強するチャンスは二度と与えられないかもしれないという中で、とにかく小学校と中学校の間に知識を詰め込んでおこうということになったのは、ある意味では仕方の無いことだったと思います。
 文部行政で反省すべき点があるとするなら、それから50年経っても同じような方法を続けたことでしょう。どこかで方針転換すべきだったのに、それが遅きに失して、『分数ができない大学生』が登場するまで詰め込み教育を続けてしまった。その反省はしなければならないと思います。
 
首相の私的諮問機関が求めていること
森首相の私的諮問機関である教育改革国民会議(江崎玲於奈座長)の答申が年内にまとめられる予定で、その中間報告「教育を変える十七の提案」が9月に発表されました。報道では、奉仕活動の義務づけが大きく取りあげられました。その内容をどのようにご覧になっていますか?
法律に基づいて設置された政府の審議会であれば、答申でも極論はなかなか出しにくいところがあり、現実に則した議論がなされます。しかし私的諮問機関という性格上、大胆にものが言いやすいところがあるのでしょう。先の『21世紀日本の構想懇談会』の『英語の第二公用語論』にしてもそうですが、みんなが驚くくらいのことを打ち出して価値があるということだと思います。『18歳の国民すべてに1年間の奉仕活動を義務づける』というと、みんなギョッとする。それが議論のたたき台になるということでしょう。
 では、そこで何が求められているか。もし学力低下が心配なら、奉仕活動をしている場合ではないでしょうから、学校教育は学力を上げるだけではいけないというメッセージがはっきり出ていると見ています。
 また第二分科会や第三分科会の報告で打ち出されているのは、できる限り一人ひとりに応じたコースを選べるように、学校制度を柔軟化したらどうかということです。それを極端にいえば、5歳で小学校に入る子どもがいてもいいし、7歳で入ってもいいということになる。その実現はなかなか難しいでしょうが、みんな6歳で小学校に入って、12歳で中学校、15歳で高等学校、18歳で大学に入るのではなく、17歳で大学に入る人がいてもいいではないか、12歳で6年一環の中等教育学校に入ってもいいではないかというように、もっと多様なプロセスを認めていこうということです。つまり自己責任の原則に基づいて選択できるようにするということで、結果 平等から機会平等への転換という考え方が出されていると見ています。
曽野綾子さんの「教育には強制が必要」というような発言から、緩んだタガを締めようということで、イメージだけでとらえると、現在の「ゆとりの教育」の方向転換ととらえるのは間違いだと?
それは全然違います。強制について語られているのは道徳心についてです。私たちがいくらゆとりと言っても、学校の勉強には、まだまだ強制の部分が多いわけです。たとえば掛け算の九九は有無も言わさず、みんな覚え込まされます。曽野さんがおっしゃりたいのは、これまで教科教育についてはさんざん強制してきた。ところが自らを律することについては、ほとんど取り組んでこなかったのではないか、そこに強制がゼロというのは変ではないかという問いかけでしょう。つまり、みんなが奉仕活動でお年寄りのお手伝いをするとき、『僕はやりたくない』ということを許すのではなく、みんなでやろうではないかということだと思います。学力における強制の必要性ということは、どこにも出ていません。むしろ勉強さえできればいいという考え方が、現状を駄 目にしているという思想からのご発言ととらえています。
 
個と公をどのように考えるか
少年による事件が盛んに報道されています。その状況をどのようにお考えでしょうか?
専門家の間でも、意見が別れているように思います。少年による凶悪事件が増えていると主張される方もいれば、増えていないとする意見もある。少年による事件が発生していること自体、深刻な事態で、決して数が少ないから考えなくていいということではありませんが、今、明らかに増えているのは不登校※2であり、子どもの自殺です。増加ということでは、むしろそちらの現象を深刻にとらえるべきだと思います。
 少年法改正は少年による事件への対応ですが、もっと広く、心にゆとりを無くしてしまいつつある子どものために、学校の制度をもっと弾力的にしていくことが大切だと思います。
なぜ、それほどゆとりを無くしているのでしょうか?
基本的にふたつあると思います。ひとつは急かされ過ぎていること、それから人と同じにしなければならないと言われていることです。
 今、人生80年になっているのに、『人生50年』の時代と同じように15歳までに中学校を出て、社会で働けるようになりなさいとか、二十歳になったら大人としての責任をすべて持てと言われる。そのように急かされることを子どもたちは理不尽と感じています。私は今48歳ですが、人生50年とされた時代なら、そろそろ人生の決算を考えなければならないところですが、『まだ20〜30年は平気だ』とのほほんと生きていられる。それなのに、子どもたちだけには以前と同じスピードを求める。小学校に入ったら、これは分からなければならない。高校生になったら、これができなければならないと言われ続ける。その不自然さ、無理さに対して、子どもたちはうまく異議を申し立てることができず、ときにはキレて暴れるという形で異議を申し立てているのだと思います。
 私は半ば本気で30歳成人式説に賛成したいくらいです。引きこもりが社会問題化されています。統計が出ませんから、これについては正確な数は分かりませんが、一説には100万人とも言われています。引きこもりの若者自身も親も、よその子は二十歳になって大学で勉強したり、世の中に出て働いているというのに、家に閉じ籠ってしまっていることで焦ってしまうのでしょう。それを30歳までに一人前になって社会に出ていけばいいと考えるだけで、ずいぶん気持ちが変わってくると思います。
 もうひとつはもっと無茶です。『みんなと同じにしなさい』と要求される。大人の社会では、みんな思い思いの服装をして、思い思いのことができるのに、子どもにだけみんなと同じにしなさいと、思うようにさせないのはきわめて不自然です。
 もちろん私は子どもに好き勝手にさせていい、無制限に時間を与えていいと言っているわけではありません。ただ今まであまりにも子どもを急かせ過ぎていたのではないか、みんなと同じにやらせ過ぎたのではないか。ここで、それを反省してみる必要があるのではないかということです。
巷間で言われている学級崩壊、つまり授業が成立しないという問題も、そこに原因があると?
関係していると思います。学級崩壊が起こるケースは大きくふたつに別けられると思います。ひとつは教師が昔と同じように生徒を一方的に押さえつけ、生徒全員を椅子に縛りつけて、スズメの学校式に言うことをきかせようとする。その画一的な教育方法を止めて、もう少しゆとりを持たせようとしているとき、それでも教師が従来の方法で生徒を押さえつけようとする。あるとき、それがうまくいかなくなって、生徒が反乱を起こすケース。
 もうひとつはそれとは逆に、教師がはき違えて、何でも子どもたちの言う通 りにすることによって、秩序が崩壊して、収拾がつかなくなってしまうケースです。
 昔のような『全体主義』で臨めば子どもたちのフラストレーションがたまって、学級崩壊が起こるでしょう。逆に『個人主義でいい、みんな好きにやっていい』と放任にしても、収拾がつかなくなってしまう。つまり個と全体との調和ということをきちんと考えなければならないということです。最初に学級崩壊が起こったときは、みんなパニックを起こしましたが、その個と全体との調和をはかればいいということが分かってきた段階だと認識しています。
個と全体のバランスが大切と?
あるべき個人と全体の比率は単純に数量化できないでしょうが、たとえば大人の社会が個と公をフィフティフィフティとするなら、子どもの時代は確かに個の割合が小さいかもしれません。小学校低学年なら、みんなと同じようにやるのが9割で、自分の考えを出すのが1割くらいとすれば、中学校になれば、2割、3割になり、高校になければ、5割に近づく。学校にいるときは全体主義で、大人になったらいきなり個を出せと言われても、子どもたちは困ってしまいます。
 
教育現場に欠けているリーガルマインド
学校教育で法律を教える必要性についてどのようにお考えでしょうか?
残念ながらお亡くなりになりましたが、生前、小渕前総理は教育改革について、つねに『個と公』ということをおっしゃっていました。全体ばかりの社会は良くない。しかし個ばかりの社会もまた良くない。個と公の関係について、戦前は公一辺倒、戦後は個一辺倒になってしまっている。そのようなことをよくおっしゃっていました。個だけの世界は、みんなが好き勝手やる無法地帯でしょう。その反対に独裁者がいても、法は必要ない。独裁者が『今日から国民全員赤い服を着なさい』と言うような社会には法律は必要ない。その場その場で、独裁者が判断すればいいのですから。
 それこそ個と全体の調和をしていこうとするなら、法を学ばなければ、それを実現できるはずがありません。法律を学ぶことはきわめて大事なことです。その際、大きな問題点は学校の教職員にリーガルマインドが欠けていることだと思います。子どもに法を教える立場にある教師のほうが、法より教育的情熱が優先するというような発想をしていては、リーガルマインドを教えることはできません。
 学校にナイフを持ってくるということで言えば、正当な理由が無く、刃渡り15センチ以上のナイフを所持するのは銃刀法違反※3です。それは厳禁する。そして、鉛筆削りのために小さな刃物を所持することは許可する。それがリーガルマインドに基づいた処置というものです。しかし『教育的情熱』から指導すると、『今この生徒はあまり押さえつけるべきではないから、黙認しよう』と思ってみたり、逆に危ないからと、鉛筆削りのためのナイフまで取り上げてしまうことになる。そういう教育からは、子どものリーガルマインドが育ちません。
個別のケースですが、今年9月、広島県の中学校で授業妨害を繰り返していた生徒に対する出席停止処分が大きく報道されました。あの件をどのようにご覧になりましたか?
出席停止はもともとあった制度で、たんなる法的処置です。リーガルマインドがきわめて乏しいために、これまでできなかったわけです。学校の現場にはリーガルマインドがほとんど無かった。その代わりにあったのが、『教育的情熱』とか『教育的配慮』といった一種の文学趣味のようなものです。たとえば明らかに警察に頼まなければならないような事柄でも、『子どもを警察に売り渡すのか』というような文学的な言辞を弄して、うやむやにしてしまうところがあった。子どもの権利といっても、他人の学ぶ権利を妨害する権利を持っているわけではありません。他人の学ぶ権利を著しく妨害する人間がいたら、その場にいられなくなる。リーガルマインドをもって考えれば、当然のことです。
法的な感覚をもって教育指導していくことに欠けているということですか?
15年くらい前、私は福岡県の教育課長をしていましたが、4月から新しく教師になる人たちを集めた式で、私は全員に『今日からみなさんは何になったのでしょうか?』と聞きました。すると、みんな『えっ?』と不思議そうな顔をする。私が『公務員になったのです』と言っても、まだ不思議そうな顔をしている。みんな教師になったとしか思っていないわけです。教師であると同時に、福岡県の教職員として、自分が『全体の奉仕者』と憲法に謳われる公務員になったという認識が無いわけです。自分が何になったかすら分かっていない。さすがにこの頃は平気でストライキをするようなことはなくなりましたが、当時はまだありました。『教師がストライキをして何が悪い』と言うが、まともなリーガルマインドがあれば、公立学校の教師は公務員なのだから、地方公務員法に違反してはいけないというだけの話です。
 
地域社会を基盤とした教育
子どもに対する虐待という問題が起きています。そのような親を育てないことも含めて、教育の転換期を迎えていると思います。家庭での子育てに関する施策として文部省で考えられていることはありますか?
長期的にいえば、学校教育を変えていくことで、次世代の親になる人たちを育てていくということですが、現在の親については、まず地域全体で育てるという考え方を進めるということがあります。行政の福祉部門や、必要であれば警察とも連携してその地域全体で子どもを見守っていくという考え方を定着させる必要があると思います。
家庭における子育てにどのように関与されていくのでしょうか?
戦後、家庭のしつけはパーソナルな問題であり、公は関知しないという考え方が長い間、支配的でしたが、もはやそれが限界にきています。文部省も『家庭教育手帳』『家庭教育ノート』という、いわば教本を作って、すべての親にお配りしています。教科書と違って、読む義務はありませんから、受けとっても読まずに捨ててしまう方もいるでしょう。強制するわけではありませんが、困ったことが生じたり、どうやったらいいか分からない人がいれば、見てくださいという形で行政が子育てに関与していく。そういう段階にきています。
子育てや教育を考えるとき、学校、家庭、地域をどのようにお考えでしょうか?
その学校、家庭、地域というとらえ方を考え直さなければならないと考えています。学校、家庭、地域とあたかも別 々の三つの領域があって、そのどれかに自分が属しているという考え方はおかしい。どうしても『学校の責任だ』とか『家庭の責任だ』と、相互依存と言いますか、責任を押しつけ合う関係になりがちです。われわれは今、地域社会を基盤に置いて、その中に学校や家庭があるという提案をしています。地域社会とは全員が属している場です。学校の教師は同時に地域の大人であり、親も自分の子どもにとっては親ですが、よその子どもにとっては近所のおじさん、おばさんであるという意識をもっていただかなくてはならない。われわれはそういう内容の報告書を出しています。
そのとき地域として想定しているのは、昔ながらの日本の地域共同体の再生なのでしょうか?
もちろん必ずしも地縁的な地域社会を指すわけではありません。隣近所の人同士だけではなく、たとえば同じ企業に属している社員の家族というのも、ひとつのコミュニティです。ボランティア活動や草野球のチームのメンバーといった共通 の趣味を介したコミュニティもあるでしょう。『この頃、地域社会も無くなった』などと言って諦めているのではなく、新しいコミュニティを作ろうというマインドさえ持てば、いくらでもできるはずです。そのように前向きにものを考えるべきだという提言をしています。
アメリカには、コミュニティに根ざしたコミュニティカレッジという教育機関がありますが、日本でも学校の先生が学校の外に出て色々な人たちに教えていくとか、一般 の人が学校で教えるといったことがあってもいいのではないでしょうか。
その通りです。学校の先生は仕事としてしか、人にものを教えていません。教師であると同時に市民であるならば、一般 の市民はボランティアで色々なことをしているわけですから、学校の先生もボランティアとして、どんどん教えられるようにすればいい。これから学校は土曜、日曜と休みになって、施設は空きます。それを利用して、教師がふだんの教科以外のことを教える。あるいは教師以外の地域の人が先生となって、『私は将棋を教えます』『私は俳句を教えます』というようになればいいと考えています。
たとえば地域に住む弁護士が生徒や親を対象にして法律を教えるようなことですね。
つまり、これまでの閉じられた空間としての学校から、境界線のない学校へ変えていくということです。今までのような学校は月曜から金曜までで、土曜、日曜には全然違う学校がある。それが生涯学習社会という考え方ですが、なかなかそこが進みにくい。むしろ先生のほうが対応が遅くて、地域住民のほうがイライラしているところがありますね。
 
自分に適した生き方を見つける
最後に21世紀の学校教育のあり方について、メッセージをいただきたいと思います。
ぜひ一人ひとりの生徒が学ぶモチベーションを身につけてほしい。そして自分は将来いったい何になるのかということを考えてほしいと思います。私は分業制社会という考え方を持たなければいけないと思います。つまり自分はこのジャンルで世の中に貢献していこうという意識を持っていただきたいと思います。みんながみんな東大法学部から大蔵省といったコースを目指すというような社会ではなく、それぞれ得意な分野で才能を発揮して、みんなで分業するという考え方が浸透すれば、『良い学校』に行って、『良い会社』に入ることを子どもに強要するようなことはありえません。
自分の目標をもって、自分に合った生き方をしていけばいい。それがまだ浸透していないようですね。
残念ながら浸透していません。子どもの周りにいる親や先生たちの中には、まだそのように思っていない方が残念ながら少なくありません。いくら私たちが状況を変えようと思っていても、子供のすぐ近くにいる人たちが考え方を変えてくれないのでは、どうしようもありません。自分がどんな人間になりたいか、将来、何をしたいかを、ゆっくり考えてほしいと言っても、そんなまどろっこしいことをしていたら、受験の学力が身につかないという考えになりがちなのでしょう。確かに土・日は学習塾で特訓しているほうが見た目の学力はつくかもしれない。しかし、パーソナルな時間に旅行に行くとか、スポーツを楽しむ、ボランティアに打ち込むことが、後々の人生にどう役立っていくかを考えていただきたい。今までは『とにかく良い大学に入るために、今はすべてを投げうって勉強しなさい』などと言われて、大学を出る頃になって、ようやく自分探しという話になっているわけです。急がば回れとは良くいったもので、本当の意味で力のある人間を育てるためには、そういうゆとりが必要なのです。
 最近、なかなか良い言葉だと感じたものがあります。江戸時代、大阪でできた適塾(天保9年に緒方洪庵が開く。福沢諭吉・大村益次郎など後の近代日本を建設した人材を輩出)という蘭学塾がありまた。適塾の『適』のもともとの意味は『自らの心に適することを適する』(『荘子』大宗師篇)だそうです。つまり、それぞれ適するやり方をもって世の中に貢献していくということです。私はそれが学校教育の原点だと思います。ところが、そのような考え方が20世紀の後半になって、著しく欠損してしまった。あるときは、みんな軍人になりなさいとなったり、あるときは、みんな企業戦士になりなさいというふうに曲がってしまった。教育の原点を取り戻さない限り、日本は大変なことになってしまうという認識を私は持っています。

  ※1 答申

平成8年7月に出された第15期中央教育審議会第1次答申「二一世紀を展望した我が国の教育の在り方について −子供に[生きる力]と[ゆとり]を− 」。この中で、「今後における教育の在り方として[ゆとり]の中で、子供たちに[生きる力]をはぐくんでいくことが基本であると考えた」としている。

  ※2 不登校の増加

「平成11年度の生徒指導上の諸問題の現状について」(速報)によれば、不登校児童生徒数は31,369件で前年度比2.0%増。

  ※3 銃刀法

「銃砲刀剣類所持等取締法」。銃砲・刀剣類の所持を原則として禁止し、例外的に都道府県公安委員会の許可の下で所持を認めることとする(同法3条・4条)。この法律において刀剣類とは、刃渡り15センチメートル以上の刀、剣などをいう。